過ちて改めざる、これを過ちと謂う。

おはようございます!BAISOKUの吉沢です。

先日のブログ で、学びの仲間と一緒の席で、
私が「過ちてこれを改めざる・・・」とつぶやくと、
誰かがそれを受けて
「『これを過ちという』、ですね」と言ってくれた、
という話を書きました。

「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」

私の好きな論語の章句のひとつです。

人間ですから、誰しもなんらかの過ちを犯すことはしかたがないことです。
過ちをおかそう、と思っていなくても、ついうっかり、ということだって
あります。

問題なのは過ちを犯しても過ちを認めないで、
それを改めようとしないことだ、と論語の中で孔子先生はおっしゃっています。

つまり、過ちを「見て見ぬふりするもの」「恰好の悪いもの」
「隠すべきもの」にするか「反省してよりよいものにするべきヒント」
「糧」「チャンス」にするか、ということですね。

そもそも「過ち」を認識しないのかできないのか、
全くきづかない、気づいても気づかないふりをしている、
そういう特殊な人間がいるものです。

「恥と敬」、これをセットで持っていなければ
動物にひとしい、と論語にも書かれています。

私自身、日々、自分の言動をふりかえって、
点検しています!

◆今日の一言

子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ能く其の過ちを見て内に自ら訟むる者を見ざるなり。

もう絶望だ。私は未だに自分の過失に対して自分を責める者を見たことが無い。
つまり自分を律して厳しく生きる人間はほとんどいない、ということだ。

論語